〇〇しなきゃと〇〇したい ③
洗濯物を取り込む時の言い方から始まり、今回で3回目の記事になります。
前回の記事はこちら。
前々回の記事はこちら。
前回は比較項目として以下の2つを挙げました。
① 時間の制約の有無(実際に制約がある、もしくはあると自分が感じているか否か)
② “一般常識”に合った行動をしようとしているか否か ※(A)の4,5の行動が該当。
まず①について。
〇〇しなきゃ、と言う時に実際に時間の制約はあったのか。
今回の洗濯物を取り込む際は、“天気の良いうちに”という時間の制約はありましたが、それはかなり緩いものでした。
他はどうでしょうか。
2)は返却期限という時間の制約があります。ただこちらも期限までまだ余裕がありました。
3)は、こちらは自分の中での時間の制約と言う面が強いですね。むしろ4)、5)と同じく②の要素が強いように感じます。
次に、②について考察します。
(A)の3)~5)については、②の指標から外れた行動だったのでそのズレを修正しようとして「〇〇しなきゃ。」と自分に言ったのではないかと考えました。
そこでふと思いました。
そもそも②の“一般常識”は本当に正しいものなのか・・・・・・?
“そんなの、誰にも分からないしこれからも永遠に分からない。”
それが私の答えでした。
なぜ私は時間や“一般常識”という規範に沿った行動を求めるのか?
その根本には、社会とうまく共生していく事が自身の生存に必要だからという無意識の存在があるのかもしれません。
時間の制約も規範も人間社会の存続には必要な事です。
それらがない社会はなかなかヒャッハーな世紀末社会になるでしょうから。
ですが、過剰な適応は自分を疲弊させてしまい、最悪は自分を殺してしまうように思えます。
洗濯物を取り込む時の言い方ひとつで大げさなという気もしますが、でもこれが休日の間中ずっと頭の中を巡り、行動に口出ししてくるのなら・・・・辛いなあ。
原因は色々あるのでしょう。
例えば長年の仕事による習慣づけ、親のしつけ、これまでの人間関係、育ってきた環境などなど。
あれこれ原因らしきものは出てきますが、じゃあ原因を明らかにしてそれらを無くせばいいのかというと事はそう単純でないように思います。
例えば過去の出来事が原因ならば、時間は遡れないので原因を取り除くことはもはや出来ません。
では原因を考えるのは止めにして、これからは自分にこう言いましょうか。
よおし!もう「〇〇しなきゃ。」って言うのは禁止!!
「〇〇したい。」で自分の気持ちに素直になってレッツポジティブ!!!
・・・・・・・・・・・・。
いや、無いわ。
ごめん私、そんなきらきらポジティブちょっと眩しすぎ。
そりゃそう言えたらって憧れはあるけど、いきなりそこまで行けないわ。
でも、自分の気持ちを自分に聞いてみることはもっとしようと思うよ。
いつも外ばっかり向かれて疎かにされて、話を聴いてもらえなくて辛かったよね。
あなたに甘えて頼りすぎていたよね、ごめんね。
いきなり全部は難しいけど、少しづつ聴いていくからね。